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大阪地方裁判所 昭和63年(わ)3239号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実は、「被告人は、隣室の居住者A(当時七三歳)が常時物音をたてるとして、昭和六三年八月一七日午後一〇時ころ、大阪市西成区〈住所省略〉の同人方に抗議に赴いた際、同人がこれにとりあわなかったことに激高し、同所で同人の腹部を所携のドライバーで二回突き刺し、よって、同人に対し、入院加療約二週間を要する腹部刺創の傷害を負わせたものである。」というのである。

右事実は、被告人の当公判廷における供述、第一ないし第三回各公判調書中の被告人の供述部分、被告人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書、Aの司法巡査に対する供述調書(二通)、司法警察職員作成の写真撮影報告書(五通)、司法警察員外一名作成の現行犯人逮捕手続書、山本東美雄作成の回答書、医師本吉宏行作成の診断書、押収してあるマイナスドライバー一本(昭和六三年押第七一二号の1)により、これを認めることができる。

二  責任能力に対する判断

1  弁護人は、被告人は本件犯行当時被害妄想を主徴とするパラノイアに罹患しており、本件はこれに基づく妄想に支配されて惹起された行為であるから心神喪失の状態にあったと主張し、検察官は、被告人については責任能力が存する旨主張するので、以下、検討するに、前掲各証拠によれば、次の事実が認められる。

(一)  被告人は、昭和二三年B市で出生し、昭和四二年、立命館大学に入学したが昭和四六年同大学を二年で中退後、大阪市〈住所省略〉所在のアパートに居住し、K興産、1組、貿易会社等で稼働していたが、昭和六〇年初めころ、被告人の部屋の北隣の部屋に入居してきた八八歳の老人が毎日のように夜昼となく壁をドンドン叩いたり、ラジオのボリュウムをあげ大きな音を出して迷惑をかけているとして、同人に対し、四、五回にわたり抗議をしたり口論をする等したにもかかわらず、結局、右騒音は止まなかったため、昭和六一年四月ころ、右アパートから同市〈住所省略〉所在の○○四〇八号室に転居したが、被告人は、右老人から創価学会への入信を勧められこれを断ったことから、右老人が被告人に対する嫌がらせのためわざと右のような騒音を出していると確信していた。

(二)  被告人は、○○でも壁を叩く音や、夜遅く大きな音をたてて洗濯機を使う等の騒音を感じ、一、二度隣室に注意したが、騒音が続くことから、四カ月ほどして○○を出て、四カ月位住み込みでホテルのフロント係をして働いた後、昭和六一年一二月ころ、同市〈住所省略〉所在の△△一二号室に入居した。

(三)  被告人は、△△に入居してから、給食会社、放出中古車センター、日誠印刷等勤務先を転々としたが、いずれも長続きせず、本件当時は(昭和六三年)八月一六日からアクトホームという不動産会社に勤務していた。なお、被告人には結婚歴は無い。

(四)  被告人が△△一二号室に入居した当時、東隣の一一号室には三五歳位の男が居住していたが、被告人が△△に入居して半年位すると一一号室から押入の襖をバシンと閉める音、ものを床にドスンと落とす音等が聞こえるようになったため、被告人が再三文句を言ったところ、一一号室の住人はしばらくして引越して行った。次に一一号室に入った男も同じように音を出したので、被告人が怒鳴り込むと、知らないと否定したので、被告人はなおもしつこく文句を言ったところ、右男は一カ月余りで転居していったので、被告人は、同人らが音を出していたことを認めて出て行ったと思っていた。

(五)  A(以下、被害者という。)は、昭和六三年六月一四日ころ△△一一号室に入居したが、その四、五日後の午後一〇時ころ、被告人から、ドンドンと音を出して迷惑だとの苦情を受けた。被害者は午後七時ころから寝ていたので被告人の言う意味がわからず約三〇分押し問答となった。また、同年七月中旬ころの午後一一時ころ、被告人から三〇分ほど同様の苦情を言われたことからしばらく部屋を出ていようと考え、同年八月一日から同月一六日まで友人の部屋に泊まるなどして一一号室を留守にしていた。

(六)  被告人は、事件当日(同月一七日)の二週間前にも一一号室からドシンドシンという音が聞こえたので、同室のドアをたたいたが、同室の電気は消えており誰も応対に出なかったので、被害者が中にいるのに電気を消して応対に出ないものと思い腹を立てた。

(七)  被害者は、事件当日である昭和六三年八月一七日は、午後三時ころに一一号室に帰り、午後七時ころから同室で就寝していた。

被告人は、同日、午後七時三〇分ころ部屋に帰ったが、午後八時三〇分ころから午後九時三〇分ころまで、一一号室から壁をドンドンたたく音、物をズシンと落とす音、戸をピシャンと閉める音が断続的に続いて聞こえたため、夜中まで音を出されては寝られないので注意に行こうと思ったが、被害者に対しては前にも苦情を述べていたこともあって腹が立ち、口で言ってもわからなければ物を持って行って脅そうと思い、マイナスドライバー一本(昭和六三年押第七一二号の1)を携帯して一一号室に赴いた。一一号室のドアに鍵はかかっていなかったが鎖錠がかかっていたので被告人はドアを引っ張りこれを引きちぎり、同室に入った。

(八)  被害者は、部屋の鎖錠がちぎられる音で目をさまし、驚いて布団の上へ立ち上がったところ、被告人は、右ドライバーを持ち、被害者の近くまできて、被害者に対し、「なんでドンドン音をたてるんや」と今にも殴りかかるようなそぶりで怒鳴った。被害者は、被告人に対し、「あんたが、うちの部屋の鎖錠を引きちぎって中に入ってくるから起きた、何のことか知らん」と言い返したところ、被告人は、被害者が嘘を言っていると思い、さらに腹を立て被害者に少し詰め寄ったところ、被害者は被告人を押しだそうとするように被告人の右手を掴んだので、被告人は、左手に持ったマイナスドライバーで被害者の腹をめがけ二回下から上に突き上げるように突き刺した。

(九)  被告人は被害者を刺した後、自分の部屋に逃げ帰った。被害者は被告人を逃がしてはいけないと思い右手で被告人の部屋のドアを押さえていたが、少しして警察官が来て被告人は現行犯逮捕された。

(一〇)  被告人は、現行犯逮捕時、警察官の質問に対し、私が刺しました。隣の部屋がうるさいので注意しに行ったところ知らないふりをされたので頭にきてこのドライバーで刺しましたと申し立てた。

(一一)  被告人は、昭和六三年二月ころ創価学会に入信したが、勧められた同僚と不仲となり総会に参加しなくなったら騒音が出た旨供述し、また、被害者についても当初は創価学会の関係者だと思っていた。

以上のように認められる。

2  次に、鑑定人横山淳二作成の鑑定書及び証人横山淳二の当公判廷における証言によれば、被告人の身体的及び精神的状況について、次のとおり認められる。

(一)  被告人は、神経学的諸検査、血液生化学検査、頭部コンピューター断層撮影及び脳波検査の各結果によれば身体的には特段の異常は認められない。

(二)  被告人の知能指数はIQ一一四で「普通知の高」水準である。

性格の特徴として、対人的引きこもり傾向(対人的には孤独で、友人等の親密な対人関係はほとんど持てず、特に異性との関係は希薄であること)があり、対人的敏感症(ごくありふれた日常的な出来事を自己へ過度に関係付け解釈する傾向)が顕著で、著しい自閉思考(現実世界より心的世界を優位に置くあり方)が存することが認められる。

(三)  被告人の精神的症状の特徴としては、幻覚、思考奪取、思考伝播、作為体験等の精神分裂病などにおいてよく観察される精神病性の異常体験は認められないこと、被告人の精神病症状の中核は妄想であり、関係妄想(自己に関係づけた妄想知覚)による誇大妄想と被害妄想が顕著であること、感情鈍麻や意欲減退等の情意の障害は比較的軽微で目立たず、分裂病性の人格解体の兆しはほとんど認められないこと、発病時期は不明瞭であるが少なくとも昭和五二年ないし昭和五三年ころには症状が現れていたこと、妄想は生活状況に固く結び付いており訂正困難であること等があげられる。

3  1及び2の各事実を総合すると、被告人は、少なくとも昭和五二年ないし昭和五三年ころには関係妄想による誇大妄想、被害妄想の症状が現れ、〈住所省略〉のアパートでの生活体験を経て訂正困難な強度の妄想(誇大妄想及び被害妄想)に発展したものであり、被告人が聞いたという隣人が嫌がらせをしている音のうち、本件事件当時及び本件事件から二週間前に一一号室から聞こえたという音については、被告人の幻覚であることが明らかであることに徴すると、右幻覚は被告人の強度の被害妄想に基づいて惹起されたものと考えられるところ、右被害妄想は、被告人が聞いたという音が幻覚であることを頑として認めようとしない被告人の供述に照らしても訂正不可能な強度の妄想であって、被告人の右状況は病的状態といわざるを得ないところ、被告人には精神分裂病にいたるまでの全般的な人格の崩壊は存しないことや妄想以外の思考にはさしたる障害が認められず職業等は不安定とはいえこれまで社会生活に適応してきていること等の事情に照らすと、被告人は、精神医学上パラノイア(妄想症)の状態にあったものであり、本件犯行はその症状である被害妄想に基づき行われたものであると解するのが相当である。そして、前掲横山淳二の証言によれば、被告人のパラノイアの症状は相当重度なものであることが認められる。

4  ところで、パラノイアにおいては全人的な人格の解体は存せず、妄想が中核となるものであるから妄想に基づく行為以外の行為については通常は責任能力が存するといえるが、妄想に基づく行為についての責任能力の有無は、パラノイアの程度、犯行の動機、態様、状況、犯行にいたる経過等の諸事情を総合して判断するのが相当であると解する。

これを本件についてみるに、右1ないし3の諸事実、ことに、被告人は強度の被害妄想等の妄想が存し、パラノイアとしては症状は重いものであること、本件は被告人の被害妄想に基づく幻覚症状下において惹起されたものであり、被告人は、これまでにも嫌がらせと感じる騒音を聞くと再三にわたり執拗に相手方に苦情を言い或いは抗議をしており、本件においても被害者に音を出すのを止めさせようと抗議を行うについて場合によっては脅すつもりでドライバーを携帯したものであること、被害者の部屋の鎖錠を引きちぎって部屋に侵入し、被害者が被告人の抗議に反論するやいきなり本件犯行に及んでいること等の諸事情に照らすと、被告人は嫌がらせの騒音に対して抗議することは正当な行為である旨の意識を有しているものと推認され、抗議を受けた相手方の否定や鑑定人、訴訟関係人からの指摘によっても右騒音が幻覚ではないという被告人の認識を訂正させることはできないのであって、被告人は、被害妄想に基づく幻覚症状下においては正常な判断能力及び行動制御能力を欠いているといわざるを得ない。

結局、被告人は本件犯行当時重度のパラノイアに罹患しており、右犯行はその症状である被害妄想に基づくものであって、被告人は本件犯行当時行為の是非善悪を弁識し、その弁識に従って行動する能力を欠いていたと認めるのが相当である。

5  検察官は、被告人の本件犯行の動機及び犯行直後の行動に対する供述に照らすと、本件犯行時の被告人の意識は通常人のそれと変わることはなく、自己の行為の是非を判断しており、かつ、それに従いうる能力を有していたと認められるし、被告人は、知能が高く、意識障害もなく、感情鈍麻もみられないし、長期間にわたって本件のごとき事件を起こすことなく、社会生活の点でもさしたる問題を惹起することなしに常識的な範囲内で適応してきたものであるから、被告人は、本件犯行当時、自己の行為の意味、客観的状況、是非善悪を判断する能力が備わっていた旨主張するところ、前記鑑定の結果及び前掲各証拠によれば、被告人は、知能が高く、意識障害もなく、感情鈍麻もみられないこと、長期間にわたって本件のごとき事件を起こすことなく、社会生活の点でもさしたる問題を惹起することなしに常識的な範囲内で適応してきたものであることは検察官指摘のとおりであるが、パラノイアにおいては全般的な人格の解体は存せず妄想以外の場面については程度の差はあれ社会的適応能力は存するものであり、また本件犯行自体は短絡反応的になされたものである側面を有するが、前記横山の証言によれば、パラノイアの場合も短絡反応の形をとって犯行が行われることがあり、それは全体妄想に支配されることによって人格の統制力が落ちているためであって、本件犯行は、被告人が被害妄想に支配され人格の統制力が低下した結果、通常の被告人の人格とは異質の人格の元に短絡反応的に行われたものと認められるから、被告人には責任能力を否定せざるを得ない。

よって、検察官の主張は採用しない。

三  以上の次第で、本件は刑法三九条一項に規定する心神喪失者の行為であるから、刑事訴訟法三三六条前段により、被告人に対し無罪の言い渡しをすべきものである。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 荒井純哉)

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